父の日に寄せて -おやじの話ー

今週末は父の日だ。

私の父は5年前の夏に90歳で他界した。

大戦を生き抜いた父も年齢や病には勝てなかった。

 

しかし、とにかく運の強い父であった。

そんな父が生前、繰り返し語った「自分史」を紹介しようと思う。

 

父は戦艦大和の生存者であった。

 

以下、第一人称は父である。

 

―志願―

 

私は大正十四年七月に、七人兄姉の末っ子として生まれた。野球や陸上の短距離走、剣道など、とにかくスポーツが得意だった。

身体を動かすことが大好きで、尋常小学校から帰ると、自宅近くの寺の和尚に相撲の技を教わった。

 

米国との開戦が近付いた五年生のころから、学校では「絶対に英語を使うな」と教育された。

ピッチャーは「投手」ストライクは「良い球」と言わなければならず、子供心にも少しずつ戦争というものを意識し始めた。

 

その頃の私は、将来は体育の教師になろうと思っていた。

だが、いよいよ戦争が始まろうとして来た頃、先生からは授業の前に必ずと言っていいほど「陸軍でも海軍でも良いから、とにかく軍人になれ」と言われ続けた。

 

そのこともあって、私は教師ではなく職業軍人になろうと決心し、幼馴染を誘って航空隊に志願した。

 

昭和15年、当時14歳だった。視力は両眼共に2.0、肺活量も十分で、航空隊の体力試験にはすんなり合格したが、最後の内科検診でまさかの不合格となってしまった。

原因は風邪による微熱。

前日、雨の中で薪割りをしたことを悔やんだ。しかし、もしこの時航空隊に合格していたら、特攻隊で戦死していたかもしれない。

 

翌年、私は、前年悔しい思いをした航空隊ではなく、一般水兵の試験を受けることにした。

 

今度は合格し、昭和17年9月に広島県の大竹海兵団に入団した。

海兵団では3か月間、銃剣術やボート訓練などを学んだ。

 

そして、卒業の前に希望配属は「戦艦」と記入して提出した。

 

駆逐艦や巡洋艦といった艦ではなく、「陸奥」や「長門」のような大きな艦に乗りたかった。

 

配属を知らせる封筒を開けると、「戦艦大和乗組」と書かれていた。

私はその時初めて「大和」という艦があることを知った。

 

 

日本海軍は「大和」の建造のみならず、完成後もその存在をひた隠しにしていた。

その為、ほとんどの国民が「大和」や「武蔵」の存在を知ったのは太平洋戦争が終わって、情報統制が解除された後のことだ。

 

つづく

 

M.