父の日に寄せて -おやじの話ー ⑥
前回までの話
―志願―https://www.pal-ds.net/父の日に寄せて -おやじの話ー/
―大和乗艦―https://www.pal-ds.net/父の日に寄せてーおやじの話ー ②/
―大和艦内での生活―https://www.pal-ds.net/父の日に寄せて -おやじの話ー ③/
―レイテ沖海戦―https://www.pal-ds.net/父の日に寄せて -おやじの話ー ④/
ー大和最後の出航― https://www.pal-ds.net/父の日に寄せて -おやじの話ー ⑤/
―沈みゆく大和― 前編
昭和二十年四月七日、この日は曇天で明けた。
早朝、敵偵察機に出会う。
米空軍は、確実にわが艦隊を捕捉していたことであろう。敵機の来襲は必至である。
その後大和は進路偽装をやめ、一路沖縄へと向かった。
嵐のまえの静けさとはこのことか、と思えるほど穏やかな海であった。
敵機の来襲に備え、昼食は戦闘食として早めに配られた。
握り飯と沢庵、ゆで卵であった。
食事が終わりお茶を飲み終えたと同時に、
「敵味方不明、大編隊確認、配置につけ!」と拡声器より流れる号令に大急ぎで各自配置につく。
十二時十五分、その日は厚い雲に覆われ視界がきわめて悪く、敵機を捉えることが困難で主砲の威力を発揮することもできない。
十二時二十七分、敵機大編隊発見。推定二百機以上。
十二時三十五分、戦闘開始。
春の海は一瞬にして爆音、砲煙渦巻く修羅場と化した。
急降下して攻撃して来る敵機、それを迎撃する高角砲機銃群、敵機は持っていた爆弾、空中魚雷を全て投下し、十二時五十分、第一波の空襲は終わった。
魚雷一発、爆弾二発が艦に命中。
また機銃掃射や爆弾の破片による死者、負傷者が多数出た。
第一波の止んだ後、「煙草盆出せ」という放送が流れた。
海軍で「煙草盆出せ」というのは「休憩せよ」という意味だ。
そこで私は後甲板に上がった。
後甲板を上がった所に単装機銃というのがあった。台座に機銃が一つだけ備え付けてある。
そこに一人の兵が付いて、向かってくる敵機を狙い撃ちするのだ。
ほとんどの機銃には天蓋があるが単装機銃にはない。敵機を狙い撃ちするというより狙い撃ちされるという感じだった。
その単装機銃の下に、ヘルメットの間から眉間を打ち抜かれた兵士が横たわっているのを見た。
若い兵士だった。
まるで地獄絵図のようだった。
ただちに被害の応急措置をし、次の戦闘に備える。
間もなく第二波の襲撃、以後休みない攻撃が七度繰り返され、被害はますます大きくなっていった。
機銃は撃ちっぱなしの為、銃身が真っ赤に焼けていた。
敵は左舷を狙って集中攻撃をしかけてきた。
この時の攻撃は米軍航空隊三八六機による波状攻撃であり、大和の構造を研究し尽くした片側集中攻撃であったことが今日では明らかになっている。
私達第十四分隊への指令は第三波の後、「右舷側へ注水せよ」と一度あったきり。
その後指令系統が全滅したためか、これ以上はどうにもできなかったからか、何の指令もなかった。
十四時過ぎ、ついに最大最強不沈といわれた大和の速力は落ち、反撃の砲火も衰え、艦は左へ左へと傾いて行った。
→沈みゆく大和 後編へと続く
M.