震災の教訓

あれから、25年も経つのですね。

 

あの朝、私たち夫婦は舞子にあるマンションの7階にいました。

結婚して2年、まだ子供はいませんでした。

 

明け方、強い揺れで目を覚ましたのですが、いつもの地震と違って揺れがなかなか収まらず、どんどんひどくなっていくように感じました。

食器の割れる音やテレビ、本棚、タンスの倒れる大きな音がますます恐怖を駆り立てます。

 

何が何だかわからないのですが、テレビも点かず、状況把握ができません。

 

「そうだ、車に行けばラジオが聞ける」

 

そう思って外に出ようとしたのですが、クローゼットとして使っていた部屋のドアが開きません。中のタンスが倒れてドアを塞いでいるのです。

 

仕方なく、前日の夜、洗濯機に放り込んでいた服に着替え、非常階段を下りて駐車場へ。

急いでラジオを点けても、ただ、兵庫県で大きな地震が発生したということ以外、何もわかりません。

 

駐車場横の公園には、近所のアパートに住む学生たちが毛布にくるまりながらしゃがみ込んでいました。

 

それから、仕事場である事務所に行くと、デスクトップのパソコンは軒並み吹っ飛び、熱帯魚の水槽も、水が半分になっていました。

 

でも、この時にはまだ固定電話がつながったんです。

なので、まず、両方の実家に電話をし、無事を知らせた後、コンビニに水の確保に行きました。

近所のコンビニにはすでに行列ができ、電気も点かず真っ暗な店内の棚はほぼ空っぽでした。

そして公衆電話の前は長蛇の列!

 

ラジオでニュースを聞きながら、車を走らせていると、水道管が破裂したのか道路から噴水状に水が噴き出していたり、焦げ臭いにおいが漂っていたりと・・・

まるで終末映画のセットの中に迷い込んでしまったかのようでした。

 

当時、明石市大久保にあったモデルハウスが気になり、見に行くことに・・・

すると、明石を超えたあたりからは、まるで何事もなかったかのように静かなことに驚きました。

 

そこでは電気も通常通りだったため、テレビニュースを観ることができました。

時間がたつにつれ、被害の大きさに驚き、改めて震えるほどの恐怖を感じたのを覚えています。

 

幸いなことに、うちのお客様の家はどこも無事だったのですが、仲間である左官さんが亡くなったのは大きなショックでした。

 

それから、当分の間はお施主様たちの家にお水を運んだり、復興のお手伝いをしたりする日々でした。

 

何日か後に、怪我をした主人の友達を大阪大学病院まで送ることになりましたが、高速道路はもちろん一般道もあちこち通行止めで通れません。なので、車のフロントガラスに患者搬送中と書いた紙を貼り通してもらうことに・・・

 

車窓から見える景色は、倒壊した阪神高速、焼け焦げた建物など、元の状態が思い出せないほどの惨状でした。

 

今朝も当時大学生の息子さんを亡くされた方のインタビューをテレビで見ました。

ご両親の気持ちを思うといたたまれなくなります。

今うちの息子も京都で一人暮らし・・・

 

本当に怖い

 

年々、阪神淡路大震災関連の行事や報道が少なくなっていく中、1月17日が来るたびに当時の事を思い出し、改めて防災の大切さを考えさせられます。

天災を防ぐことはできないので、それに付随する災害を防ぐしかありませんものね。

 

今でも枕元には懐中電灯とスリッパをおいて寝ています。

 

震災から3年後、家を建てました。

教訓を生かして、耐震性はもちろんのこと、発電、蓄電システムを完備し、庭のデッキ下とガレージの下に合計4.5トンの雨水タンクを埋めています。

飲料水としては使えませんが、トイレの水洗には十分です。

 

 

 

蓄電された電気で携帯電話の充電もできます。

太陽熱で床暖房もできます。

 

 

また、家の中のドアも、間口が大きく開き、物が倒れても開かなくなるということがないように、ほとんどを引き戸にしました。

 

震災を経験した私達だからこそできる、安全な建物の提供をさせていただきます。

日々暮らしている家が一番安心できる場所でありますようにとの願いを込めて・・・

 

R.