父の日に寄せて -おやじの話ー ③

前回までの話

―志願―  https://www.pal-ds.net/父の日に寄せて -おやじの話ー/

―大和乗艦―  https://www.pal-ds.net/父の日に寄せてーおやじの話ー /

 

 

―大和艦内での生活―

 

ある日、これも訓練の一環ではあったが、艦内をどれだけ覚えたかを図るための競技会があった。

 

艦内の場所やそこでの課題が書かれた紙が配られ、あちこち回って課題をこなし、その時間を競うというものだ。

私はスピードや記憶力には自信があったが、一番になってやろうという気持ちの焦りから課題を一つやり忘れている事にゴール直前で気付き、二番になってしまった。

悔しかった。

 

毎日様々な訓練があったが、それだけではなくこの頃は、映画や演芸会などの催しもあった。

 

映画は左舷の真ん中あたりに大きな幕が垂らされて、これをスクリーン代わりに上映された。チャンバラ映画が多かった。

 

演芸会では、当時人気者だった川田晴久というコメディアンの真似をする兵士がいて、皆楽しんだ。

 

また、新兵も上等兵も一緒になった相撲大会などもあった。

甲板に相撲部のマットを敷きつめて、周囲を皆が囲んで行われた。

初めての相撲大会で、小さな私が同じ分隊内で一番背の高い上等兵に下手投げで勝った。

 

とにかく負けず嫌いであった。

 

それを見ていた相撲部員の兵曹から、「おまえ、是非相撲部に入れ」と勧誘された。

しかし私は、内地にいる間には毎日道場までの外出が許可されるという理由で剣道部を選んだ。

 

外出の際、私は艦内の売店で買った石鹸や練乳を剣道着の中に隠して持ち出し、下宿先のおばさんに持って行くこともあった。

 

山本長官退艦後、海軍兵学校出身の久邇宮徳彦少尉候補生が乗艦してこられたが、私はそのお世話を命じられた。

このことはとても名誉なこととして、皆にうらやましがられた。

 

八月に入って、私は艦内で案内のあった海軍学校の入学試験を受けた。

 

無事合格し、昭和十八年九月一日から十一月末まで横須賀航海学校で航海技術の訓練を受けた。

 

卒業の際にはまた、希望配属を聞かれたが、私は躊躇なく「戦艦大和」と記入した。

 

そして希望がかない再び大和に乗艦することとなった。

 

今度は駆逐艦に乗ってトラック島に帰ったのだが、その時の揺れは艦に慣れているはずの私でも船酔いしたほどだった。いや、大和ではほとんど揺れを感じることがなかったという事を思い出した。

 

大和と駆逐艦ではそれほどの違いがあったのだ。

 

海が荒れている時など、大和から見ていると駆逐艦は波の間に浮き沈みしていて、時折しばらく見えなくなった後にぽこっと浮き上がってくる。

大和に乗っている私達は、その様子を見た時にこれは大きな波なんだと気付くほどだった。

 

大和に戻ると同じ第十四分隊配属となるが、「この分隊から学校に出てまた大和に帰って来た者はこれまでいなかった」と、たいそう歓迎された。

 

 

しかし、二度目に乗船した大和艦内の雰囲気は以前とは全く違っていた。

娯楽は一切なくなり、訓練を繰り返すだけの日々だった。

 

戦況の厳しさが日増しに強くなっていたのだ。

 

 

→レイテ海戦へとつづく

 

 

 

M.