父の日に寄せて -おやじの話ー ④

前回までの話

―志願―https://www.pal-ds.net/父の日に寄せて -おやじの話ー/

―大和乗艦―https://www.pal-ds.net/父の日に寄せてーおやじの話ー /

―大和艦内での生活―https://www.pal-ds.net/父の日に寄せて -おやじの話ー /

 

―レイテ沖海戦(フィリピン沖海戦)―

 

昭和十九年、マリアナ沖の海戦で日本軍は主力空母三隻と参加航空隊の四分の三を失い大敗。

サイパン、グアム、テニアンを失ったことで、日本全土がB29の射程圏内に入ることとなった。

 

同年十月、マリアナ諸島攻略を完了した多数の米輸送船団がフィリピン、ルソン島のレイテ湾内に侵入。

米軍の本格的な上陸が予想された。

その為、これを牽制しようと日本海軍はレイテ方面への進撃を開始する。

 

「大和」にも出撃命令が下された。

 

十月二十二日、「大和」、「武蔵」を中心とする第一遊撃部隊はブルネイ港を出港し、レイテへと向かった。

しかし出航翌日、フィリピンのパラワン水道で米軍の反撃に会い、その後も米軍の猛攻撃によって「武蔵」を含む戦艦三隻、空母四隻、その他艦艇を多数失った。

人的被害は一万人にも及んだ。

 

 

 

当初の目的を果たせないまま北上を開始し、大和がブルネイへの帰路に就いたのは十月二十五日の事である。

 

そして二十六日未明、シブヤン海を退避中、敵機の空襲を受けた。

 

魚雷は大和の右舷後方に命中。そこから海水が流れ込み、右舷側に傾斜したが、なんとか復元し、二十八日夜にブルネイへと帰還した。

 

この一件でますます私達は大和の不沈神話を信じることとなった。

 

私の所属していた分隊に死傷者はいなかったが、艦内全体には死者も多数いた。

 

海上で戦死者を弔うにあたって、まず遺族に届けるための髪と爪を少しずつ切り、白紙に包んだ。

次に顔や手足を拭いてきれいにし、重りの代わりに「練習弾」と呼ばれていた広角砲弾を抱かせて毛布でくるんだ。

そして艦後部右舷側から、ラビットの滑車で海に降ろした。

大和の中には僧侶もいたので、きちんと袈裟を着た僧侶がお経を唱え、「海ゆかば、みずく屍・・・」の軍楽隊のラッパ演奏に合わせて、皆敬礼で戦死者を見送った。

 

画像は映画「日本海大海戦」より

 

 

 

ブルネイももはや安心できる場所ではなかった。

十一月十六日午前十時ごろ、突然米爆撃機の編隊が飛来した。

 

「敵編隊来襲、配置につけ!」との命令がくだった。

主砲は対空弾に切り替えられていた。

敵機に向かって主砲が撃たれた時には、まるで魚雷を受けた時のような振動が、室内にいた私達にも伝わってきた。

 

そして衝撃の後電気が消えた。

 

 

十一月二十四日、修理の為に呉のドックに戻り艦を降りたところで、後部を大きくえぐられた駆逐艦を見た。

レイテに向けて出撃した時に、親友の乗っていたはずの艦だった。

 

私はこの駆逐艦の乗組員から、親友の戦死を聞かされた。

 

魚雷が命中した後方に乗っていたらしく、跡形もなく砕け散るという壮絶な

最期を遂げたとのことであった。

 

私はただ海に向かって手を合わせることしかできなかった。

 

後に休暇で故郷に帰った時、親友の家族を訪れた私は、ご家族の深い悲しみに触れた。

 

 

→大和最後の出航へとつづく

 

 

M.