父の日に寄せて -おやじの話ー ⑤

前回までの話

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―大和乗艦―https://www.pal-ds.net/父の日に寄せてーおやじの話ー /

―大和艦内での生活―https://www.pal-ds.net/父の日に寄せて -おやじの話ー /

―レイテ沖海戦―https://www.pal-ds.net/父の日に寄せて -おやじの話ー /

 

―大和 最後の出航―

 

日増しに戦況は悪化していった。

 

昭和二十年三月二十六日、米軍は慶良間諸島上陸を開始し、四月一日には沖縄本島に上陸した。

 

大和は、三月二十九日に呉軍港を出港。

三田尻沖に向かい先着していた第二艦隊所属の軽巡洋艦、駆逐艦九隻と合流するが、四月四日夕刻、停泊中の駆逐艦「響」が磁気機雷に触れる事故で呉に帰港し、残り十隻が出撃していった。

 

翌五日、連合艦隊司令長官豊田副大将より「第二艦隊大和以下ハ水上特別攻撃隊トシテ指定航路を南下シ、航空特攻作戦ニ策応シテ、沖縄嘉手納泊地ニ突入シ、敵艦船ヲ攻撃セヨ」との出撃命令が下った。

 

翌日片道だけの燃料しか持たず、沖縄へ特攻隊として出撃する」と有賀幸作艦長から命令が発せられた後、私達分隊へは能村次郎副長から訓示があった。

 

沖縄への特攻攻撃命令を受け、皆一瞬青ざめたが、すぐに「やるしかない!」という覚悟と気合がその場の空気を支配した。

 

 

親元へ遺品を送れ」という通達があり、私は急いで手紙と髪の毛と爪と貯金していた当時の金百円(月給十六円)を同封して田舎の両親に送った。

 

手紙には「元気でやっています。これまで貯めたお金です。使って下さい」とそれだけを書いた。

 

常日頃、「親より先に子供が死ぬことほど親不孝なことはないんだ。」と言われていたので、特攻隊として出撃するなどとは、ましてや別れの挨拶などはとても書けなかった。

 

しかし、同封された爪や髪を見た両親は、きっと死を覚悟した息子の任務に感づいただろうと思う。

 

親の心配とは違って、当時私は戦死すると言う事は「軍神」になるということで、これ以上名誉なことはないと思っていた。

 

戦死して靖国神社に名を残すことが親孝行だとも思っていた。

 

だから特攻隊としての出撃命令を受けた時も当たり前のように受け止めた。

大和が沈む時は日本帝国が沈む時、そういうプライドを持っていた。

 

翌四月六日、大和は乗組員3332名を乗せて出撃。

 

大和を旗艦とする第二艦隊は、軽巡洋艦・矢矧、駆逐艦・冬月、涼月、雪風、磯風、浜風、霞、初霜、朝霧の計十隻だった。

 

去りゆく内地を、皆千慮万感胸を打つ思いで眺めていた。

 

出航してしばらくは、大和は陸の近くを進んでいた。

夕日にかかる頃、「前甲板へ集合」という号令がかかった。

甲板の第一主砲の砲塔の上に軍刀を持った野村副長が立っていた。私は前から五、六列目にいた。

 

 

桜の花びらが風に乗って艦の上まで飛んできた。

 

その時、

「ああ日本の桜、この桜ともお別れか、もう二度と日本には帰れない」とう悲しさと淋しさとが入り混じった感情が込み上げて来た。

 

私はひとひら拾い上げて母の写真と一緒に胸のポケットに大事におさめた。

 

その後、海岸線から住民達が手を振るのが見えた。「万歳!万歳!」と叫んでいた。

 

あの光景は今でも目に焼き付いている。

 

別府沖に差し掛かった頃、「宮城遥拝」の号令があった。

皆東に向かって天皇陛下に敬礼し、国歌斉唱した。

 

その後続いて「故郷遥拝」との号令があった。

皆各々の故郷に向かい、敬礼する者、ただ物思いにふける者、涙を流す者もいた。

 

その時、「ああ堂々の輸送船、さらば祖国よ栄えあれ。遥かに拝む宮城の空に盟ったこの決意~」

と誰かが歌いだした。

 

歌声はしだいに大合唱となり、海に広がっていった。

 

その夜はそれぞれが決意を胸に、一人静かに過ごす者、皆で軍歌を歌う者、様々であった。

 

夜半、敵潜水艦を発見するが異常はなかった。

 

 

→沈みゆく大和へとつづく

 

 

M.